鬼門(きもん)とは、北東の方位・方角の事。十二支を時計版のように並べた場合の丑と寅の間であり、艮(うしとら)の方位・方角ともいう。日本では古来より鬼の出入りする方角として忌むべき方角とされている。また、鬼門とは正反対の位置となる南西の方角(坤・ひつじさる)を裏鬼門と言い、同じく忌み嫌われてきた。
古代中国では年末年始は一年の変わり目の時期であり、冬から春に転じる時で変化が大きく、疫鬼(えきき)が民に病や災禍をもたらすとされた。そこで疫鬼を駆逐し旧年を送り、新年、春の陽気、吉福を内に迎えた。この催事が日本に伝播し、節分の「鬼は外、福は内」の行事となったが、もともとは旧暦の年越しの頃に厄払いとして行われた行事である。
古代中国における一年始まりである立春は、十二支で言えば寅月の始まりである。丑月で一年が終わり、寅月から一年が始まる。鬼が出現する大晦日=丑と寅の間(艮)=東北=鬼の出現する門=鬼門となった。
なお、東北鬼門の考え方は中国から伝播したものであるが、日本では独自の発展をしている。陰陽道が日本に伝わり日本の神仏習合思想と深くかかわりを持つことで、日本独自の家相の発展とともに鬼門の観念も発展してきた。
陰陽道の最盛期といわれる平安時代中期頃から、病気や疾病、地震、火災、天災など、そのすべてを神の祟りが起こすものと考えられ、祟りを起こす神の存在を鬼に例えて恐れたことが大きな理由とされる。鎌倉時代前期に著された「陰陽道旧記抄」に「竈、門、井、厠、者家神也云々」とあり、竈、門、井戸、厠など、病気に直結する場所を神格化させ、諸々の宅神から祟りをうけぬよう祭祀を行っていた歴史があり、鬼の門と名の付く北東方位を他の方位方角より恐れる方位になった。
平城京では鬼門の方角に東大寺が、裏鬼門の方角に植槻八幡宮が建立され、平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方角に石清水八幡宮が建立された。以後、鎌倉幕府や江戸幕府でも鬼門・裏鬼門の方角には寺院が建立され、鬼門封じとされた。